全ての自分は、普通の人。
仕事に行きたくない。
そんな日があります。
使命感の深さによって、責任感が比例するので、
それが評価の目安にされるということも、
長い勤務文化として定着しているのでしょう。
ですが、絶対にそうだとは、
言い切れなくなってきている世の中であることもまた、
確かなようです。
責任感の強い人ほど、体がついていかない。
そんな時の自分を嫌悪してしまうことだってあるし、
惰性で仕事に行っている人だっています。
キリッとシャキッと、仕事をスタートできる人というのは、
実は想像以上に少ないのではないでしょうか。
ほとんど毎日ない。週の半分以上はそういう感じ。
というのは、ある調査では、全体の半分近く。
この中に当てはまると、精神疾患も疑われるそうですが、
僕も、ほぼ毎日それと戦っていたように思いかえします。
ヤル気はあるんですよ。
なのに、自分が行かなくともなんとかなるさ。
と、どこかで思っていたり。
裏を返すと、
自分は特別でいたいし、特別な存在なのだから。
と勘違いしていたのだとも感じます。
特別な何かになれると思って、僕は18で上京しました。
自信とかそういうものはなく、
ともかく、東京に行けば成功するとだけ、思っていました。
莫迦(ばか)とはこのことを言うのですねぇ、、、。
どこまでも莫迦だと思うのは、
根拠もなくそれが宿命づけられていたような気がしていて、
それがうまくいかないとわかった時、
初めてそのフィールドの中で何か別のことを見つけました。
恐らくは、あわよくば、
チャンスをつかまえて、
本来目指していた場所にたどりつけるだろうと考えてもいました。
もう一度言います。
莫迦ですねぇ。
そもそも、「あわよくば。」というのが、よくありません。
いわゆる、「ふたごころ」が、
僕の行動と気持ちにはついてまわっていたからです。
それに、タチの悪いことに、
「ふたごころ」は「二枚舌」も作るのです。
友人に、いつか言われたことがあります。
「紐づけするのをやめたほうがいいよ。」
きっと、僕を気遣って、
やんわりとそういった言葉で表現してくれたのです。
これをやれば、この要素のこれにつながるから、これもできるし、
あれも手に入る「であろう。」
そうではなくて、これをやりきることによって、
今目の前にあるものを、確実に手に入れろ。
そうして初めて、次の可能性が与えられるものです。
そんな今の僕も、達成したい希望を持ちつつ、
四つの仕事を掛け持ちしています。
大変です。
だけど、以前に感じていた大変さとは、ちょっと違う。
使い古された言葉ですが、「集中力」が鍵のような気がしています。
Aという仕事には、Aのことだけを考える時間と、体力を使い、
Bという仕事は、Aとは全く関係ない。
という割り切りと自由の中で、精一杯やりきる。
もし、関連性という手応えが欲しいのなら、
月末に通帳を眺めるか、
一日の終わりに、関わった全ての人々のことを思い返す。
ああ、俺、ちゃんと社会と関わったんだな。
よかったよかった。
それだけのこと。
朴訥で、愚直でいいんだよな。
俺が生きることって、意外とシンプルなんだな。
自分で勝手に難しくしていたんだな。
あとは、時の流れを信じて、
意のまま、あるがまま。
実は、自信なんてそんなもんかもしれません。
自分は特別だと思うことも、ある意味では大切。
でも、そう思い込むことが強すぎて苦しんでしまうのなら、
そんな自分は捨てた方がいい。
その代わり、それを捨てることも、のたうちまわるくらい苦しい。
そう求められることが苦しい環境ならば、
一目散に逃げた方がいい。
あなたは特別だ。と、決めるのは、
あくまで、自分以外の人々なのだから。
自分の幸せなんて、自分でしか決められないのだから。