心は、鏡。
昨夜、人に悪口を言われて悲しんでいる人がいました。
捉え方にもよるのだけれど、
聞いた本人の気分が悪くなるのであれば、
それは往々にして「悪口を言われた。」
と、その人の中ではなかなか忘れることのできない事実になります。
傷つく。のです。
なぜ、傷ついたと思うかといえば、
それは、親が、人を傷つけるようなことをしてはいけない。
と、教え込んでいるからで、
親だけではなく、大人、教師のほとんどは、
子供にそう言いふくめますし、
大多数がそうだから、そうしちゃいけない。
とも、心に刻むのでしょう。
けれども、成長するにつれ、
傷つく度合いも回数も、またその逆も、
関わる人が多くなれば多くなるほど、
その摩擦によって生じる事態の数も比例してきます。
とある人は、何かに誰かを誘って、断られたことに傷つき、
ある人は、人に何かを尋ねられて、その回答を否定されたことに傷つき、
ある人は、言葉ではなく、
ふとした雰囲気のボタンのかけ違いで感じ取った、
仕草や態度で傷つきます。
こう考えると、傷つかずに生きることすら、
本当は不可能なのではないかとも感じます。
傷ついた人は、その傷を癒すために、どうにか落とし所の深い、理由を探します。
相手が実は勘違いしていたのではないか。
相手が間違っていたのに、自分を辱めたのだから、
本当は付き合うべき人間じゃないのではないだろうか。
人としてどうなの?
、、、どうも、自分に都合の良い考え方をしがちです。
けれども、傷つくということは、
死ぬまで続きます。
いや、毎日ではありませんよ。
でも、いちいち傷ついて、自分の何かをその度に奪われて、
そこを恨みつらみで埋め合わせるとするならば、
いずれ、自分というものは完全になくなって、
他人から得た恨みつらみで自分が出来上がってしまいますよね。
それって、美しくない。
かたや、傷つける側というのは、
ほとんどの場合、甘えが強く、小心者であり、
条件が揃わないと、腹を割れません。
要するに、傷つける対象よりも、傷つくのが怖い人間だからです。
さらにいうと、失敗を繰り返してきてしまった人がとても多いことに気づきます。
実は、人を傷つけるたびに、「またやってしまった。」
と後悔する人ならばまだ良いのですが、
末期的になると、それさえ感じられなくなります。
ただし。
最初にお話ししたように、
捉え方。というものも関係してきますから、
それが、叱責なのか、悪口なのか、陰口なのか、妄語なのか。
そして、苦言なのか激励なのか。
傷つきたくないと願うならば、
捉え方を鍛えるしかありません。
屁とも思わない心。
思う以上に、人が人と関わるというのは、
タフな作業の連続です。
鉄板のような、強固な壁で相手がぶち当たってくることを待ち構えるか。
真綿のような、柔らかさで相手の言動を、一度は捉えてみるか。
包み込めとは、僕も言いません。
ただ、自分を大切にするというのは、
大切にしよう!という誓いだけではどうにもなりません。
心には工夫が大切です。
心をどう保つかといった書籍もたくさん販売されています。
それを読み漁るのもいいでしょう。
徹底的に読めばいいと思います。
そうしているうちに、きっと、ある感情にたどりつくからです。
俺は、なぜ、そんなに心というものに怯えているのだろうか。
そんな、疑問にも似た、回答です。
心は鏡。
それに何が映ったとしても、鏡自体の価値も佇まいも、
変わることはありませんからね。