琥珀色した飲み物。
毎日、どうしてもこれだけはなきゃダメ!
というものが、僕にとっては、
珈琲です。
どんな豆の、どんな味の。
というのは特にはありません。
というよりも、そこまで考えて飲んでいないからかもしれませんが、
僕の周りには、いつの間にか、その道のプロフェッショナルが、
たくさん存在するようになりました。
人には、どんな仕事にもスタイルというものがあります。
「でも、基本はみんな同じなんだよ。
みんな、提供したいと思う姿は違うけれど、
いいものを出したいと思うのは一緒だからね。
だから、基本は大切なのさ。」
とは、初めて巡り合った、豆の焙煎をされている、
僕の大切な恩人からの言葉です。
子供の頃、家庭ではコーヒーとコーラは固く禁止されていました。
眠れなくなる。骨が溶ける。
など、真実のほどはわかりませんが、
おそらくカフェインが良くない。
ということだったのでしょう。
なんでもそうですが、過剰摂取は体に毒です。
ただ、珈琲に対しては、僕もちょっと依存気味かもしれませんね。
高校生の時に、制服のまま入ることができてタバコが吸えて、
ともかく、いい音楽がかかっていて、
自分がホッとできる場所を探していた時に、
巡り合った一軒のお店なのですが。
インスタントや缶でしか飲んだことのなかった小僧に、
目一杯手間と愛情を注いで、一杯のコーヒーをサーブしてくださる。
ハンドドリップという言葉なんて知るはずもなく、
その頃テレビで流れていた缶コーヒーのCMで、
“粗挽ネルドリップ”という言葉をようやく知った頃でした。
一滴一滴音も立てずに、慎重に落とされるお湯によって、
まるで魔法のように、
むくむくと膨れ上がる粉末を撫でるように沸き上がる湯気に、
えも言われぬときめきを感じながら、
じっと見つめたものでした。
外は雨で、古い喫茶店のトタン屋根を、バラバラと打ち付けます。
言葉少なな接客を貫くマスターがふと、
窓を開けて、当時ではもう珍しかった両開きの雨戸を左右に押し拡げると、
タバコの煙が戸外へ流れ出てゆくさまを追いかけるように、
なだらかで軽やかなリズムで、ジプシーキングスが聴こえてきたのを、
いまでも鮮明に思い出すことができます。
雰囲気で生きている時が、僕には多々あります。
それに流されて、間違ってしまったことも多々あります。
大いに反省をしておりますが、後悔はしていない。
というのが、今の本音です。
そこにはいつも、忘れることのできない、
鮮明で、色褪せることもない時間がまだ、
僕の心の中には流れているからです。
珈琲の存在とは、いつもそのような魔力みたいなもの。
忘れる。ということの大切さを、躰が知っている限り、
忘れたくない。という抗いを手助けしてくれる。
誰にとっても大切な一日。
全てを覚え続けているのは、とっても苦しいことだけれど、
忘れないための鍵。のようなものは、
誰にでもあるようですね。