漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

「松」の漢字 pine

 

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ショウ(shou)、まつ(matsu)

右側の「公(コウ)」の読みの音と、

意味を踏まえて、木偏に当て作られた形声文字です。

「公」のつく漢字には、「頌(たたえる)」「訟(うったえる)」。

など、どちらも「ショウ」と読まれます。

節が多く、高く雄々しくそびえる姿がめでたい。

そんなことから、「松」の漢字となりました。

松に吹く風を「松風(しょうふう)」と言いますが、

これが祝賀の言葉に使われるのは、

吉兆を意味するからです。

 

「松」の個性

 

youtu.be

小学校四年生で学習する、八画の常用漢字です。

部首は、「きへん」

書の資料を見ると、木偏が大きかったり、公が小さかったり、

様々なデザインがありますが、

楷書の場合は、木偏を狭くとって、公を広くした方がいいようです。

動画では、行書で書いていますが、

一画目は10度右上を狙って引きます

こうすると、全体に立体感が出ます。

五画目は、一画目の収筆の真横から引き、

六画目は、二画目の高さに合わせて引くと、

バランスが良くなります。

七画目が広くなってしまう方が多いようです。

「ハ」の字の中に収まる程度で書くと良いでしょう。

 

「松っちゃん」

「松」の漢字を持つ人の宿命。

大抵、あだ名を「松っちゃん」と呼ばれます。

今日は、大変私事になりますが、

僕の幼少の頃の話。

僕にとって、初めて「親友」という言葉を覚えて、

そうだな、こいつだな。

と思ったのが「松田」という名の友人でした。

小学校一年生から、六年生まで、ずっと同じクラスで、

家も近所でした。

だから、毎日朝は一緒に学校へ行っていたし、

帰りもほとんど一緒です。

僕と違って、体がとても大きく、足が速く、

とにかく運動ができた。

小学校の生活の中で、約1500日ほどを一緒に過ごすわけですから、

もう、兄弟みたいなものです。

札幌は、雪が多いので、冬の公園は子供達が「基地」を作ります。

ちょうど、滑り台のとこなんて、最適です。

滑り台の上まで雪が積もり、そこから滑る部分の背中側を、

じゃんじゃん掘り進んで、最終的には積もった雪山の中を空洞にして、

松っちゃんと「基地」を作ろうと掘り進んだのです。

ところが。

掘り進んでいったのはいいものの、

バンザイ状態で、筒状になった雪壁に挟まり、

上に上がることができなくなったのです。

「松っちゃん、上がれないよぉ。」

「、、、。」

どうやら、どっか別の基地の開発にいそしんでいるようで気づきません。

時間はどんどん経ってゆき、おしっこもしたくなってきました。

「松っちゃーん!どこー??」

返事が返ってきません。

どのくらい時間が経ったでしょうか。

「かっちゃーん!!かっちゃーん!!」

ようやく松っちゃんの声を聞いて安心して気が緩んだのでしょう。

ズボーッンと2メートル位の底まで滑り落ち、

光が遥か彼方になりました。

「オバさーん!大変だー!かっちゃんがー!」

叫びながら母の助けをもらいに走る松っちゃん。

お袋が着の身着のままで現れ、スコップを差し出し、

引き上げてくれました。

「この、ばかたれ!!」

目ん玉が飛び出るかと思うほど後頭部を一発殴られる僕を見て、

松っちゃんも大泣き。

「かっちゃーん、死んじゃうかと思ったよー!」

 

そんな松っちゃんですが、一度だけケンカしたことがあります。

小学校卒業間際でした。

僕は、中学のお受験に参加したのですが、

見事に不合格になり、大変落ち込んでいました。

松っちゃんが慰めにきてくれて、嬉しかったので、

「まあ、これでまた一緒に中学校いけるね。」

と言ったら、

「かっちゃん、一緒にはいけないんだよ。」

「?」

「もう、会えなくなるんだよ。」

「なんでさ!」

「ごめんな。」

「友達やめるってこと?」

「そうじゃないけど、もう会えなくなるんだよ。」

「なんで?!」

「うるさいなぁーー!!かっちゃんは!!だからいやなんだよ!!」

「もういい!わかった!!」

今まで、小競り合いは有っても、そんなことは言わなかったし、

何より、笑った顔しか見せない彼が、

見たことのない悲しい顔だったのです。

僕は、泣いて帰りました。

https://www.instagram.com/p/BjWYGUSnKl9/

そんなことがあった。

と、母に話すと、

「あれ!あんた、松っちゃん引っ越すの知らなかったのかい?」

愕然としました。

それから、何日か経って、卒業式の数日前だったと思います。

気まずさを抱えながら、松っちゃんに会って謝りました。

松っちゃんは、松っちゃんなりに悲しくて言い出せなかったんだな。

数日間考えて、ようやくバカな僕は、彼の気持ちがわかったんでしょう。

どちらかというと、自分自分の子供でしたし、

そんな僕を毛嫌いしていた同級生もいた中で、

松っちゃんだけは、僕の知らないところで味方してくれていたことも、

僕はようやく六年間気づかなかったことに、気づいたのです。

初めて、心から感謝した人でした。

それからは、今までも会ったことはありませんが、

元気で幸せにいてくれることを、今も祷っています。

 

「松」の字を見るといつも思い出し、

今現在も、この字を持つ友人にはお世話になっています。

心配かけています。

いつか、安心してもらえるといいのですが。

 

長くなってしまいましたね。

本日もお立ち寄りいただいて、ありがとうございます。拝

 

 

◇「松」を含む名前における当ブログの過去参考記事◆

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善と悪と。

ひいてたカゼをこじらせました。

 

ずっと熱がこもった状態だったのですが、

鼻水と咳が加わり、

風邪らしい風邪です。

 

葛根湯がいいよ。

 

と、勧められたのですが、

なんとなく効きそうもないな。と感じ、

ほっといたのですが、

結局病院で葛根湯が出されました。

 

葛根湯は、寝る前にお湯で溶いてすすると、

効き目が顕著に出てくるような気がします。

 

苦いんですが、ほのかに甘く、

喉元がスーッとします。

時代劇を見ていると、たまに薬湯が出てきますが、

これってそんな感じだったのかな、、、、、。

いやいや、きっともっと、昔のはマズイに違いない。

 

そういえば、たまにお金のある時に体調不調になった場合のみ、

お世話になっている漢方薬局さんがあります。

もう数十年前になりますが、

階段を登れないくらいの足の痛みを抱え、
加えてなんだか調子悪かったので、

足には関係なく伺ったのですが、

「それ、風邪の炎症だよ。これ飲んでごらん。」

と、煎じた薬をその場でお湯に溶いてもらって、勧められました。

足が痛いのに漢方薬?風邪と関係あるの?

まあ、疑心暗鬼で苦不味い液体を飲み干して五分ほど経った頃でしょうか。

膝を占拠していた痛みが、消え去ったのです。

不思議でたまらなかったので、なんでですか?

と尋ねたら、

「たぶんあなたの場合、ウィルスが関節にとどまりやすいんだね。

鼻とかのどに注目しがちだけれど、

風邪はそこがひくんじゃなくて、体がひくんだから、

全体のどっかで炎症が出て当たり前なんだよ。」

ああ、てっきり、鼻とか喉が苦しいからそこで風邪ひいてると思っていたら、

そもそもわが身がひいて苦しいんだよなぁ。

 

そのころから、体質に何らかの変化があったのか、

風邪をひくと必ず関節痛を伴うようになってしまいました。

 

思い込みなのかもしれませんが。

 

ミュージアム」という映画を見ました。

快楽的な殺人犯は日光で敏感に反応してしまう体質なのですが、

ラスト近く、病室で一服盛られて死んでしまうシーンの時、

「、、、、、その体質を治すには、あなたの心の悪に向き合うか、

それとも、、、。」と、あって、

聞き方によっては誤解も生じるのかもしれませんが、

僕はある時期からひどいアレルギー性の皮膚炎に、

長い間悩まされていました。

同時に鬱にもかかっていて、

精神的なバランスもかなり崩れた時期でした。

加えて、喘息もあり、本当に苦しかった。

ところが、一気にアレルギー症状が爆発して、

三、四日経つと、体全体の皮脂が剥けて、かゆみや痛みも治まり、

楽になる。

そして、いい状態が四年くらいまた続く。

よくなったから、また無理をする。

その、無理の中には、悪というものもやはり含まれていて、

うーん。。。

悪というよりは、後ろめたさかな。

そんなのが、自分の腹の底あたりに溜まってくるんですよね。

そいつをひょっとしたらストレスというのかもしれません。

 

この歳になってようやく自分の体の扱い方がわかってきたように感じています。

善業だけでは生きて行けませんし、

悪業だけでも生きて行けません。

ただ、この倫理観の振れ幅によって、

単純に人生のキャパが広がってゆくようにも思えます。

 

悪いことは行わない。でも、悪とだけは知っておく。

善いことは率先して行い、それを重ねてゆく。

 

ここでも、また立ち止まって考えてしまうことになりますが、

意識するしないに関わらず、

悪は、体に悪いのです。

だから極力しない。近づかない。

他人のためでもあれば、何より、自分のためなのですね。

Money

僕の周りには、お金持ちの友達がたくさんいます。

 

振り返ると、同級生を見てみるとよくわかるのですが、

昔から良くも悪くも、自分に正直で愛嬌のある人間が多い。

 

お金持ちに囲まれていれば、

自分もお金持ちになれますよ。

 

そんな話を聞いたことがありますが、

僕は嘘だと思っています。

 

以前、父に「お金がないって、惨めだな。そうだろ?」

と、問われたことがあります。

正直、ピンときませんでしたので、とりあえず、

「そっか。」と相槌を打っておきました。

 

お金って一体なんなのか。

諸説ありますが、

「自分が社会でどれだけ役に立っているか。の指標。」

という解説が僕には半分くらいしっくりきました。

とはいえ、お金のない人が役立たずかというと、それも違います。

能力があっても、

それを活かすことのできない管理者がその人をマネージメントしていると、

実績を上げ、利益を上げ、

最終的に個人所得に影響を与えることが難しくなってきます。

自分が身を置いている職場というのは、

作業を提供し、労働意欲を高め、

生きる意味づけという価値を有意識無意識に関わらず、

それを認識させ、ひいては誰かの役に立っている。という矜持を植え、

具足として会社の規模が大きくなってゆく。

昔お世話になった会社の社長が、

お好み焼きをつつきながらそんなことを言っていたのを覚えています。

かなり昔の話ですから、今とは経済活動の背景も違います。

ですが、その分、法人としてのスタイルも多様化し、

自分に合った労働生活を選べるようになったことも、

現代らしくて、幸せなことだなぁ。と、感じます。

 

お金がついてこないと、気持ちも貧しくなるのか。

お金がたくさんあれば、気持ちも豊かにすることができるのか。

 

難しいところですね。

 

でも、貧しさは、悪ではありません。

善悪でけじめをつけたいのであれば、

貧しさに導くものが悪と言えます。

 

貧しさに導くもの。

 

それは、自分の心であったり、

自分から時間や労力を搾取するものであったり。

内なるところと外にあるところ、

ありとあらゆる場所にそれは潜んでいます。

簡単に言うと、死に金を作ることが悪なのでしょう。


僕も、お金で人に助けてもらったことが、何度も何度もあります。

助けてもらった分、自分が成功しなくては。

と、がむしゃらに仕事をして、幾らかでも返済に充てて、

苦労しながら誠意を示してゆこうと、日々を暮らしていたことがあります。

今もそうなのかもしれません。これは、性格でもあるのですが。

けれども、そんなある日、体を壊してしまった。

情けなくって、人にも会いたくなくて。外にも出たくなくなって。

そんな時、

「お前が苦しんだり、痛がっていたり、

そんな姿を見るために金を用意したんじゃない。

ゆっくり時間をかけて、

お前なりの幸せな姿であってくれればそれで充分なんだよ。みんな。

早く良くなれ。そして、無理するな。」

そんなLINEが来た時に、
目が覚めたような気がしました。

僕は、死に金を作ってしまうところだったのです。

 

この世のすべての人が、金持ちになれるわけではないし、

それはそれで、困ったことにもなる。

ただし、まずは、暮らしと、この命を維持してゆくこと。

そこから、誰にも迷惑をかけることがないと踏んで初めて、

富を目指したごくごく個人的な経済活動を行えば、

それでいいのだろう。

 

成功なんて、それぞれの成功があるのだから、

そもそも何が成功なのかなんてわからないし、

羨望という全く根拠のない物差しで測るから、

核心が全く見えなくなる。

だから、成功を誰よりも強く意識している人が、

本当の成功を手にしているところを、

僕は見たことがありません。

成功自体言葉の意味が曖昧ですよね。

この場合、それぞれの完成といった方がいいのかもしれません。

 

今の僕には、夕食の明かりが灯っていて、
その明かりの下に、家族が揃って食事をしている。

ただそれだけのことに、とてつもない憧れを感じます。

 

お金とはまずはそんな、

何でもないと思われる、

ささやかな富をもたらしてくれるものではないでしょうかね。

 

それ以上の意味づけは、

人間が根本に持つ欲が動かしてゆくような気がしています。

 

そこに、欲の善悪がないことを、祈りつつ。