漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

旧正月に寄せて

ここ二十数年ほど、西暦、新暦下での年越しや正月を、

それらしく僕は迎えられていません。

 

あ、でも一度くらいでしょうか。

記憶に残っている年越しらしい年越しは。
確か23年前に、札幌を離れて、

とある地方に家族で三年ほど住んでいた時の最後の年でした。

 

あれ以来。

 

家族でイメージするような、温かな新年を迎えた覚えが全くありません。

記憶にないのかもしれないけれど、

なにごとも、

節目と引き際を大切にする(ええカッコする)僕の性格においては、

満足いくものではなかったからなのか。

記憶にないということは、

多分は、継続されていないからなのでしょう。

 

それとは裏腹に、

日本の各種イベントごとにはほとんど興味がないくせに、

ましてや、誕生日にもそんなに強いこだわりもないくせに、

なぜか正月に関しては、自分なりの思いが入ってしまいます。

 

せめて、何かが「カチッ」っと変わった感覚みたいなのが欲しくて、

節分と旧正月は、めでたさや、派手さもないけれど、

自分の軸を見つめる作業をしてみます。

 

特別なことではありませんが、

部屋で上等なお香を焚いて、近所のお寺にお供えをし、

上等なお茶を啜り、米を炊きます。

 

いつもいつも、現状を変えたいと苦悩してきたこの長い長い年月。

そんなんだから、占いや風水なんかも気にしてみたり、

勉強してみたり。

 

現時点が最終的な判断にはならないのですが、

まったく状況は変わりませんでした。

それもそのはず。

自分の「性根」を変える作業を、

僕は敢えて、してはいなかった。

 

この混沌を歩く中で、今、身に染みていることはたった一つで、
自分が信じて疑わなかったことを、

一旦全部、疑ってみることの大切さ。

本当に、生きてきたその軌跡が自分で納得したものだったのか。

自分が大切にするべき意思や価値観以外のものに、

流されていなかっただろうか。

強い思い込みが産んだ、

悪しき惰性だけで生きてきたのではないだろうか。

避けることと、逃げることとを履き違えていなかっただろうか。

そんな自分の身の上を一度全否定した上で、
吐き気を催すくらいにもがき、

それも全部、俺の人生。として引き受ける覚悟を確かめてみることが、

大変で孤独で恥ずかしいことだけれど、

結果として、

胸の真ん中に小さく結晶化されたようなものを感じることができれば、

それでいいのだと、今は確信しています。

それがおそらくは、生きることへの意味づけになる。

そういったことが、本当の安楽を手に入れ、

つもる現実的な課題も当然あるけれど、

それを消化してゆく勇気につながる。

それらのことを、贅沢も、わがままも許された、

まったく自分のためだけの自由な時間に味わうことができる。

それが、僕の節目であり、過去の自分への引き際だったのですね。

 

ただ、僕は今まで本当に大切なことを忘れていました。

忘れているだけならば、まだいいのですが、

欠落していたのだ。そもそもなかったのだと、

ここ最近やっぱり恥ずかしく感じています。

 

それは、圧倒的に、「感謝」を知らなかった。

 

口ではなんとでも言えるというのは、

このことなんだ。

 

生きるって、本当に恥ずかしい。

 

恥をさらすことが、むしろ生きるということなのかもしれません。

その恥が、今日からまた少しずつ、消え失せて行きますように。


運気を変えるとは、
自分を変え続けるということなのかもしれません。

そんな自分の真ん中に、祷りを込めて。