Teenage Walk
お金を盗まれました。
とは言っても、中学生の頃ですが。
当時、僕の家はとっても厳しい家風で、
まあいまだにそうなのですが、、、、。
ゲームなんてもってのほかで、ファミコンさえも買ってもらえませんでした。
なので、目を盗んではゲームセンターに入り浸るようになりました。
ヤンキー全盛期だったこともあって、
薄暗い場所=不良の芽の生える場所。
かわいいであろうはずの我が子が、
盗んだバイクで走り出したり、
夜の校舎窓ガラス壊してまわってしまったり。
きっとそうなってしまうのだ!
といった激しい思い込みに裏打ちされた図式が、
ある一部の保護者の間には出来上がっていたようで、
いちいち子供を管理するのも大変だったろうし、
日が沈んで薄暗くなって外でウロウロしている子供は、
不良ということにしましょう。
まあ、そんな大雑把な考え方がはびこっていたわけです。
それでも、塾通いや習い事をする少年少女はどうしても遅くなるわけで、
子供の自我の覚醒に気づかない親の目を盗んでは、
初めての小さな冒険に日々いそしむわけです。
優しいおばあちゃんから小遣いでもらったお金、
または親から本代としてかすめ取ったお札は、
なぜか全て50円玉になっていて、
分厚く重い長財布がパンパンになっていました。
これは、喧嘩有事の時に有効な武器にもなるかと思い、
常に携帯していたはずでした。
これをゲームに魂を完全に奪われている最中に、
お金まで持ってかれたのには、さすがに落ち込みました。
当然名乗り出る者も、犯人を名指しする者もいないわけですから、
あの、全てが猜疑心に満ち満ちた独特の空気感は、
大人も子供も同じです。
これも、冒険にはつきものだ。ということが腑に落ちたのは、
もうしばらく経ってのことでした。
一人で何かをすること。
それが、冒険です。
例えば、立ち食いそば屋で何かを注文してみたり、
普段乗るバスの終点まで行ってみたくなって、
知らない遠くの町のバス停で、目的もなく降りてぶらぶらしてみたり。
そうしてみては、うちに戻ってまた適当な嘘をつくことも覚えたもんです。
僕の虚言癖もここから来ているのかもしれません。
けれども、どっかかんかで、
さらっと、風のようにさりげなく、
大人たちは見も知らないこんな小僧に気を留めてくれ、
うるさくもなく声をかけてくれていたように思います。
親は近すぎて、甘えの方が先にどうしてもやってくるから、
礼儀もクソもなく、うるせ〜!となってしまうことも、
そうではない大人に諭されると、
はあ、なるほど、おっしゃることはごもっともで。
と、素直に耳をそばだてることも多々ありました。
そう考えると、他人様に対してどうあるべきかを、
親はしっかり叩きこんでいてくれたんだな。と感謝しています。
最終的には、まるっきりの他人が絹の織物の目のように密接に関わり交わる、
社会の荒波に放り投げられるわけですから、
そうなると、コミュニケーションにおいて、
何が一番大切になってくるかというと、
ちゃんとまずは人の話を聞く姿勢。
この目に自分を編み込んで良いかどうか。
それを見極めるには、聞き、観るより他はない。
ということになります。
これは、汲み取る力とも言えるかもしれません。
うまく喋れるか。というのは二の次です。
それは、伝わるか伝わらないかは、
相手に大いに委ねなければならないところが多いからです。
運も関係するかもしれませんね。
昨今では、自分を大好きでなきゃならない。
認めてもらわにゃならない。
羨ましがられにゃならない。
それを無理っしゃりネットの海に放ち、泳がせねばならない。
どうも、静かで寡黙で目的のない説得を行うことに多くの時間を割き、
それを多くの人に伝えなければ、自分の存在価値がわからない。
という風潮もあるようです。
それはそれでいいのだと思います。
表現の方法と目的は、誰もが自由であるべきなのですから。
ただ、それが全てになっては、困りませんか?
極論となってしまいますが、世界中の誰もがあなたを知っているとするならば、
そして、あなたの全てを認め、敬っているとするならば、
そんな窮屈で面白みのない人生は、悲劇としか言いようがありません。
逃げも隠れもできないし、
間違いを犯すこともできないのです。
人間は、知った時点で何かを小さな裁きにかけます。
ということは、行動が狭まってゆくという側面もあるのですね。
逃げる、隠れるという言葉が存在する限り、
ヒトという生き物にとっては、善悪関係なく当たり前の行動です。
それも、いいじゃないですか。
ま、そんなこと心配せずとも、
真の昭和の人間は、そんなあなたが毎日、毎分、情報を発信しなくとも、
巡り合わせを人生のどこかで何かに与えられたなら、
しっかりと話も聞くし、
あなただけを見て話もしますから。
急がなくとも良いのですよ。
行き先を決めず、心のあるがまま、歩いてみましょう。
それが冒険であり、旅なのですから。