漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

Teenage Walk

お金を盗まれました。

 

とは言っても、中学生の頃ですが。

当時、僕の家はとっても厳しい家風で、
まあいまだにそうなのですが、、、、。

ゲームなんてもってのほかで、ファミコンさえも買ってもらえませんでした。

なので、目を盗んではゲームセンターに入り浸るようになりました。

ヤンキー全盛期だったこともあって、

薄暗い場所=不良の芽の生える場所。

かわいいであろうはずの我が子が、

盗んだバイクで走り出したり、

夜の校舎窓ガラス壊してまわってしまったり。
きっとそうなってしまうのだ!

といった激しい思い込みに裏打ちされた図式が、
ある一部の保護者の間には出来上がっていたようで、

いちいち子供を管理するのも大変だったろうし、

日が沈んで薄暗くなって外でウロウロしている子供は、

不良ということにしましょう。

まあ、そんな大雑把な考え方がはびこっていたわけです。

 

それでも、塾通いや習い事をする少年少女はどうしても遅くなるわけで、

子供の自我の覚醒に気づかない親の目を盗んでは、

初めての小さな冒険に日々いそしむわけです。

 

優しいおばあちゃんから小遣いでもらったお金、
または親から本代としてかすめ取ったお札は、
なぜか全て50円玉になっていて、

分厚く重い長財布がパンパンになっていました。

これは、喧嘩有事の時に有効な武器にもなるかと思い、

常に携帯していたはずでした。

 

これをゲームに魂を完全に奪われている最中に、
お金まで持ってかれたのには、さすがに落ち込みました。

あの時ほど、「Komami」を恨んだことはありません。 

当然名乗り出る者も、犯人を名指しする者もいないわけですから、

あの、全てが猜疑心に満ち満ちた独特の空気感は、

大人も子供も同じです。
これも、冒険にはつきものだ。ということが腑に落ちたのは、

もうしばらく経ってのことでした。

 

一人で何かをすること。
それが、冒険です。

例えば、立ち食いそば屋で何かを注文してみたり、

普段乗るバスの終点まで行ってみたくなって、

知らない遠くの町のバス停で、目的もなく降りてぶらぶらしてみたり。
そうしてみては、うちに戻ってまた適当な嘘をつくことも覚えたもんです。

僕の虚言癖もここから来ているのかもしれません。

 

けれども、どっかかんかで、

さらっと、風のようにさりげなく、

大人たちは見も知らないこんな小僧に気を留めてくれ、

うるさくもなく声をかけてくれていたように思います。

親は近すぎて、甘えの方が先にどうしてもやってくるから、

礼儀もクソもなく、うるせ〜!となってしまうことも、

そうではない大人に諭されると、

はあ、なるほど、おっしゃることはごもっともで。

と、素直に耳をそばだてることも多々ありました。

そう考えると、他人様に対してどうあるべきかを、

親はしっかり叩きこんでいてくれたんだな。と感謝しています。

最終的には、まるっきりの他人が絹の織物の目のように密接に関わり交わる、

社会の荒波に放り投げられるわけですから、

そうなると、コミュニケーションにおいて、
何が一番大切になってくるかというと、

ちゃんとまずは人の話を聞く姿勢。

この目に自分を編み込んで良いかどうか。

それを見極めるには、聞き、観るより他はない。

ということになります。


これは、汲み取る力とも言えるかもしれません。

 

うまく喋れるか。というのは二の次です。

それは、伝わるか伝わらないかは、
相手に大いに委ねなければならないところが多いからです。
運も関係するかもしれませんね。

昨今では、自分を大好きでなきゃならない。

認めてもらわにゃならない。
羨ましがられにゃならない。
それを無理っしゃりネットの海に放ち、泳がせねばならない。

どうも、静かで寡黙で目的のない説得を行うことに多くの時間を割き、

それを多くの人に伝えなければ、自分の存在価値がわからない。

という風潮もあるようです。

それはそれでいいのだと思います。
表現の方法と目的は、誰もが自由であるべきなのですから。
ただ、それが全てになっては、困りませんか?

極論となってしまいますが、世界中の誰もがあなたを知っているとするならば、

そして、あなたの全てを認め、敬っているとするならば、

そんな窮屈で面白みのない人生は、悲劇としか言いようがありません。

逃げも隠れもできないし、
間違いを犯すこともできないのです。
人間は、知った時点で何かを小さな裁きにかけます。
ということは、行動が狭まってゆくという側面もあるのですね。

逃げる、隠れるという言葉が存在する限り、

ヒトという生き物にとっては、善悪関係なく当たり前の行動です。

それも、いいじゃないですか。

 

ま、そんなこと心配せずとも、
真の昭和の人間は、そんなあなたが毎日、毎分、情報を発信しなくとも、

巡り合わせを人生のどこかで何かに与えられたなら、

しっかりと話も聞くし、

あなただけを見て話もしますから。

 

急がなくとも良いのですよ。

 

行き先を決めず、心のあるがまま、歩いてみましょう。

 

それが冒険であり、旅なのですから。