若さは失えど、手に入るものとは?
というどうにも耳障りな言葉がここ数年、
世間を賑わせていました。
どうやったって、老化は避けられないのだけれど、
それを否定したり、嫌悪するかのような表現と乱用は、
消費者に根拠のない危機感や恐怖を与え、
この言葉をスーパーのPOPや雑誌の見出しに使われると、
僕は無条件にげんなりしたものです。
もうこの言葉は死んだも同然。
僕自身の話をすると、
前述のブログにも幾つか書いたように、
社会不適合者であることには、多分間違いなくって、
親には「お前は生まれてきた時代を間違えたな。」
と、よく苦笑されます。
本当は自分の何かが、決定的に欠けているだけなんですが。
それは、どの時代に生まれようとも、
同じことだと感じます。
そうは言っても、人には劣等感や引け目や負い目を感じている限り、
小さな救世主を日々探して生きるものです。
ヒトにも、モノにも。
それだけ、人知れぬ大きな悩みを孕んだ、
不完全な問いに振り回される生き物なのかもしれませんね。
このままでいいのだ。
と、何らかの出来事の中で、
一旦は納得して幸福感に高揚しているうちはいいのですが、
日々日々何かを目に見える形で評価されたり、
褒賞を与えられたりすることが目減りして行って、
最終的には、
自分は何のために生きているのだろうか。
と、誰もが一度は考える命題を重く受け止めるか、
軽く受け流すのかで、それぞれの歩幅は変わって行きます。
これは、性格です。
歩幅は変わろうとも、「歩む」ということに違いはありません。
ただ、目指している場所も、歩むべき距離もそれぞれ違うだけ。
「隣の芝生は青い」というのは、
芝生として生えている草の種類も違うかもしれないし、
そもそも、自分が芝生なんて手入れが面倒だから求めていなかったり。
「なんでお前には芝生がないんだ!」
と、挙句押し付けられたり。
いやいやその代わり、うちの芝生以上に青い芝生にしないでくれ。
と、意味不明な要求をされたり、邪魔されたり。
同じ年なのに、あなたより私の方が老けて見られる。
まあ、いいじゃないですか。
それだけ熟成している。と、捉えれば。
若く見られる人には、
それなりに「ナメられる」というリスクもあるのです。
人が追い求める「若さ」とは、
陽炎のように感じることがあります。
それを追いかけるには、
またそこにたどり着くための距離が必要で、
時間もかかるわけですし。
そんなことに最初から振り回されない人も、世の中には多数います。
僕も出会ったことが何度もありますが、
魅力的で、とにかく美しく、惹き込む力が普通ではない。
出会った方々に共通しているのが、
「悪口や世迷言を言わない。」
これは本当に、男女問わず美しいし、そんな話題になっても、
逃げ方がとても上手です。
そういえば、ふと思い出しましたが、
摩利支天をご存知でしょうか?
イノシシに乗ったインド伝来の戦場の守護神で天女なのですが、
陽炎のように姿を見ることが難しく、小さくて素早いそうです。
その手には、針と糸を持っていて、
悪いことや、噂を流す口を縫い付けるのだとか。
多分、神話や経典に現れるこういったお話は、
人間の美。を追求した方便なのでしょうけれども、
そんな人に出会うたびに、なんとも言えない緊張が走ります。
その緊張感がまた心地よかったりもするのです。
美しさとは、年齢ではないし、ましてや若さではない。
年はとるんじゃなくて、重ねてゆくもの。
そんな陽炎のような女性たちなだけに、
良い思い出だけを残して僕の前からは去って行きましたが。
僕も凡人なのですね。