漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

ポラリス

4日前からインフルエンザにかかってしまいました。

 

冗談ではなく、僕は流行モノにめっぽう疎いのに、

風邪やインフルエンザには、流行りだすと真っ先にかかってしまいます。

 

一昨年、敗血症性ショックという病気にかかって、

生死をさまよってから、やはり体調が芳しくありません。

 

どちらかというと、人間というものは、辛いことや苦しいことが、

思い出の主軸になりがちです。

「日本人ならではだよ。」と、聞いたこともあります。

病気になった原因が、

楽しかったことや出来事であると考えることはほとんどありませんよね。

不運な出来事や、至らなさから自らが生んでしまった、

ストレスのせいではないかと、

どこかで思ってしまいます。

 

この病気を経験するまで、正直、

あんまり生きるということに執着がありませんでした。

けれども、死にきれなかった事実を考えると、

どこかに諦めなかった自分を見つけたことも事実です。

 

僕はあまり上手に生きることができなくて、

あちこちさまよって壁にぶち当たって大怪我をしては、

元の場所であろうかという淡い勘頼りで自分の道を見つけ、

また歩いては大怪我をしてまた探り。

 

そんな自分が本当に嫌になったこともありました。

 

昨日、建国記念日に病床に伏せながら、
焦りを紛らわせるように、

なんとなく先週借りてきたDVDを観ていました。

 

北極星を日本各地から観測して、

それを元に暦の正誤を明らかにしてゆく。

といった物語の「天地明察」。

北極星は「ほぼ」動かない。

 

僕の希望も「ほぼ」動くことがありません。

けれども、遥か彼方にあるがゆえに、

近づいているのか、遠ざかっているのかさえもわからなくなることがあります。

おそらくは、まっすぐに進んで行くことよりも、
迷いながら、失敗しながら、
少しでも近づいたという自分だけにしかわかるはずもない、
ほんのわずかな実感の積み重ねこそが、
背中を押し続け、歩むべき道の標に関連付けてくれているのではないかと、
ほんの少し前まで、絶望の淵に敢えて立っていたここ最近の自分を、
振り返って感じるところです。

これを、ガイダンスというのだそうです。

生きていないと、そんなささやかな喜び。
それさえも感じることはできないし、やはり、

生きることにそもそも意味などなく、
意味付けしてゆくことこそが、生きるということなのだと。

そう思います。

 

僕のブログのURLがhokushin-myoukenなのは、

北極星を神格化させたのが北辰妙見菩薩で、

誰に勧められたでもなく、信仰心とは関係なしに、
いつの間にか僕の中で希望を見失うことの怖さから、

心が求め迎えた菩薩なのだと思っています。

 

僕だけではなく、北極星はそれを見仰ぐ誰にでも、平等に光を放っています。

それを希望と呼んでもいいのではないかと、僕は思います。

抱く希望の形とは、どこまでも自由であり、
そして、決して動かない。
という不自由さも同時に抱えています。

だから、その希望と向き合うということは、

不条理なことも、不遇なこともあって然りなのですね。