漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

濱田祐太郎氏に想う、才能の源泉とは。

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パラリンピックが明日から始まります。

その前に、この快挙。

いい漫談でした。

 

以前僕は、障がいのある方々をサポートする団体の方と、

お話しする機会が何度かあり、大変申し訳ないのですが、
ずいぶん噛み付いたことがありました。

 

それは、

障がいを持つ方々に対して、偏見を持つな。

と言うこと自体が「偏見」なのでは?

と、僕が持論をぶちかましたからです。

嫌な奴ですね。

最終的には、どうサポートして行きたいのか。
という本気度を知りたかったからで、
今でも仲良くしてもらっています。

盲目である。
だから面白い。

これに正面から向き合った藝。

僕たちが知らない世界を、

笑いという方法で教え伝えてくれる。

研究や精進の必要は、
ご本人にも支えてくれている人々にも多々あるのでしょうし、

手放しで面白いとは言い難い部分もあるでしょう。
けれども、日本ではもどかしかった何かを、

解いてくれたのは確かではないでしょうか。


「検校(けんぎょう)」という言葉があります。
お正月によくかかる「春の海」という純邦楽

これを作ったのが、宮城道雄氏で、盲目の作曲家でした。
盲目の作曲家のことを「検校」と呼びます。
純邦楽には、こういった偉大な作曲家が多く、

また、
例えば、レイ・チャールズ氏。
例えば、辻井伸行氏。
例えば、ラウル・ミドン氏。
芸術に関しては音楽の分野での活躍が多く聞こえてきます。
ドキュメント番組や、ニュースなどで障がいを乗り越えて。

といった伝え方がされますが、

障碍者、すなわち弱者。

という観念が、僕にはあまりピンときません。
なぜなら、彼らは彼らの与えられた宿命の中で、

生きることを掘り返し、それを繰り返し、

そうやってたどり着いた源泉から日々、

才能を自らに引き込んでいて、

それを表現によって、

僕たちに注ぎ込んでくれているのですから、

伝え方、紹介の仕方をもう少し工夫してもらえればな。

と、感じます。

 

話は戻りますが、

「偏見」「差別」という言葉をとっても、

言葉がそこに存在する限り、
それをあるがまま引き受けることは、

かえって差別と感じられるのでしょうか。

逆の立場で見方を変えてみると、

障がいを持った方々にだって、

健常者を差別的に見ることだってあります。

濱田氏の藝には、それを感じなかったし、

だからこそ卑屈さが漂わない。

ここに、笑いというこころ動きが生まれたのだと、

そう感じます。


ひょっとすると、差別は、障碍者同士、
もちろん健常者同士だって、ありうること。

身体的なことはもとより、精神的であったり、
環境的だったり、経済的であったり、
宗教的だったり、信条的であったり。

数え上げたらキリが無いくらい。

 

結局のところ、人間がこの世に存在している限り、

完全無欠ではないのですから、

「無い。ということが、有って然り。」
と、含んでいればいいこと。

濱田氏の藝から伝わってくる熱に、

そんなことを感じました。

 

あまねく。

どこまでもあまねく、
皆がそれぞれの場所で活躍し、イキイキとし、
その果実を分かち、味わえる、
懐の深い世の中であることを。