漢字バカ200撰

漢字が好きなので、書と漢字の成り立ちから話を広げるブログ。広がらない時は、別のことを。

霞か、雲か。

ソメイヨシノが咲いたとか。

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僕も例に漏れず、桜が大好きです。

花の色も、形も。

けれども、「本当の桜」を初めて見たのは、

東京に出た18の時です。

息を飲む。とはこういう感覚か。

そんな思いを巡らせながら、当時の恋人と眺めたのを思い出します。

僕が、本州からなかなか離れることができなかったのは、

ひょっとすると、この桜の季節のせいかもしれません。

桜の名も知らず、ただただ「美しい」。

そんな自分の心までも、美しくいられるような。

そんな花です。

・霧と霞の違い

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別ブログにも今日は書いたのですが、

数年前、広島市に住んでいた頃、

よく一人で宮島へ通いました。

住んでいたのが佐伯区だったので、

バスと広電でのんびりと向かったものです。

霧も霞(かすみ)も靄(もや)も、

文学的には同じものではありますが、

近くしか見渡せない状態を、霧。

遠くまで識別できる状態を、靄というのだそうです。

この言葉の分け方は、俳句によく使われます。

春を霞。秋を霧。と季語では使われています。

宮島の小高い場所から眺める、夕暮れ時の高台の茶屋から眺める、

岩国の街明かりが、満開の桜で霞にかかってぼんやりと美しかった。

景色はぼんやりだったけれど、

記憶ははっきりとしています。

その感覚の谷のようなものが、心に深く刻まれているのでしょう。

 

一人で宮島を歩くのが、

僕の混沌とした迷いのリセットになっていたあの頃。

よく、穴子丼も牡蠣ももみじ饅頭も、食べたものです。

くだんの茶屋の縁台に断りもなしに座っていると、

何も言わずにお茶とお菓子を出してくれました。

もちろん、お茶代は支払うのですが。

そっとしておいてくれる心遣いが、

とっても心地よかったものです。

しばらく、訳があって広島へは行っていませんが、

今でも大好きな街であることは確かです。 

 

横浜に移り住んだときも、やはり、満開の桜並木を横目に見る、

小高い丘の公園の麓に住んでいました。

見上げる桜も綺麗なもんだな。

と、この季節はずっと縁側で昼間から少しお酒を飲みながら、

眺めていたものです。

桜は、そばにいつもあったはずなのですが、

さすがに北の桜はまだ若く、子供の頃に見た桜よりも、

少し勢いがついたかな。と思うくらいではありますが、

これから僕がこの世を去るその日までには、

きっと豊かな花びらを湛えてくれるのではないでしょうかね。

・桜が僕にくれたもの

幸せも、喜びも、悲しみも、

この季節に与えてくれた

桜は今でも記憶のそばに咲いてくれています。

なので、たとえ今は離れていても、

いつかまた、そのそばに行ける人生が待っているような、

そんな気がしています。

 

僕は、ものを書く人間です。

 

その背景に、以前書き入れたものを、今日は置いておきます。

 

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