生 自分はだれか。
今年は、近年稀に見る数の命名書をこしらえさせていただいております。
少子高齢化が叫ばれる中、
また、僕自身が子供どころか、結婚すらしていない現状を踏まえると、
感慨深い制作の毎日です。
3月くらいまで、定期的に命名書のご予約を賜っており、
数をこなせるというだけでも、深い経験につながってゆくだけに、
この制作に大きくて柔らかな幸福感を味わっています。
僕の教室の初めての講義では、まず自分の名前を筆で大きく書いてもらいます。
大人も、子供も一緒です。
一字一字の意味や成り立ちをその後解説します。
踏まえて、もう一度書いてもらうと、まるで字体が変わっているのがわかります。
それは、自分を少し丁寧に扱いたいな。
という、小さな自己愛の芽生えだと思います。
自己愛は、ナルシシズムではなく、己を客観的に大切に扱うということ。
独善的とはまるで違うものです。
どんな親も、たくさんの思いを込めて名をつけています。
不幸にも肉親から名をもらえなかったとしても、
名付けた親は、それも親であり、その子の幸せに思いを馳せるものだと思います。
思いを馳せる。とは、祈りのことです。
祈る側、祈られる側の思いの一致が、歩む道を照らす燈になると、
僕は自分の経験からも、生徒さんからも教わりました。
人は、道に迷うために歩いているのではないかと思うくらい、
困難と選択と決断に満ち溢れています。
知識も経験も必要ですが、自分は誰か。
という問いに答えてくれるのは、いつも名前であるのだと、
そう感じています。
大きくなって、彼らが道に迷った時に、自分で答えを出さねばならぬ時に、
少しの手助けになれれば。
そんな思いで、命名書をしたためています。
今日はこの辺で。
お読みいただきありがとうございます。合掌